「アユタヤ王朝・宮廷音楽と日本との関わり」

タイは東南アジアの中でも特に多様な文化的背景を持つ国の一つです。この多様性は北部に山岳地帯、南部に海岸が広がるなど他国との交流が容易だったことや、宗教的な影響などが関係していると思われます。隣国の中国、カンボジア、インドなどから伝わった異なる文化や習慣が絶妙に融合し、独自のタイ文化が形成されました。

タイの伝統的な音楽はタイの文化や歴史を反映した響きを奏でます。使用される楽器は「ランナート(打楽器)」「クルイ(縦笛)」「チン(小シンバル)」など。

民族楽器の歴史はスコータイ王朝(13世紀~15世紀)、アユタヤ王朝(14世紀~18世紀)の時代に宮廷を中心に洗練された古典音楽が発展し、現在のタイ音楽の基礎に繋がっています。

アユタヤ遺跡を訪ねてみました。バンコクから車で約2時間。繫栄していたアユタヤ王朝とビルマ軍に破壊されて滅びるまでの時代を想像しながら遺跡を散策しました。

アユタヤ王朝は1351年初代ウートーン王の時代からビルマ軍によって首都が陥落した1593年までの前期と、対ビルマ独立戦争を勝利に導いたナレースワン王の時代から再び宿敵ビルマによって首都アユタヤが破壊される1593年から1767年までの後期に分けられることがあります(年度には諸説あり)

特にナレースワン王による後期アユタヤは国際貿易によって大いに栄え、日本からも多くの人たちがこの街で生活した記録が残っています。(1604年から鎖国が始まる1635年まで。)

日本からは御朱印船(海賊船や密航船ではないことを示すための色が施されている🚢)が入港し、銅・鉄・硫黄・樟脳・手工芸品を輸入し、アユタヤからは鹿皮・象牙・更紗などを日本に輸出。

最盛期には1000名を超える日本人が居住していて、その多くは戦乱の世の終わりに失職した浪人(関ヶ原の戦いで主君を失った浪人たち)や迫害を逃れたキリシタンなどの移住が元になっています。

山田長政がその一人で武士に憧れたものの戦乱の世が終わってしまい、その後商人に憧れてタイに渡ります。徳川家康は貿易に積極的で伽羅の香木を輸入させていました。

彼らの武力も活かされ、アユタヤを配下に置きたいスペインからの襲撃を撃退させた力を買われてアユタヤ王朝の王女と結婚した長政は大出世しますが、王亡きあとは後継者争いに巻き込まれ若くして亡くなります。

アユタヤ遺跡では数多くの建物と仏像が並んでいますが、仏像の頭部がすべて破壊されたままの状態になっています。豊かな隣国アユタヤをなんとか自分たちの領土にしたいビルマの攻撃の残酷さが見て取れます。

撥ねられた頭部が転げ落ち、長い年月をかけて木の根に守られています。

タイの7月はカラッとした晴天とスコールの繰り返しですが明らかに湿気の多い日本よりは涼しくて過ごしやすい日々でした。

伝統音楽の生演奏に出会うことが出来ませんでしたが、日本との交易を経て多くの楽器が日本にも渡ってきたことが想像されます🥁

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