~ Venezia 編 (2) ~
ベネチア出身の作曲家と言えばアントニオ・ヴィヴァルディ (1678年3月4日ー1741年7月28日)
アレッサンドロ(1669年ー1747年) ベネデット(1686年ー1739年) マルチェロ兄弟がいます。
ヴィヴァルディは神学校で学び司祭の職に就きながらベネチアにある身寄りのない孤児たちが過ごすピエタ慈善院で音楽の指導をするなど生涯を通じて子どもたちに作品を作り続けていたことで膨大な曲が残されています。

1335年、ヴェネツィアに着任したフランシスコ会の修道士アッシジのペテロが目にしたのは、路上に溢れる浮浪児たちでした。
彼は寄る辺なき孤児らを救済すべく「慈悲を! (Pietà !)」と訴えながら市中を歩き回って寄付を募り、1340年サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会近くの17軒の家を借りて孤児を受け入れ、これが後のピエタ慈善院 (Ospedale della Pietà) の始まりとなりました。

ピエタ慈善院から見える景色です。

1340年から始まったピエタ慈善院は赤子を置いておく小さな窓があり、いつの日か迎えに来た時の証明になるもの「服の切れ端」「イヤリングの片方」などを添えておくことが習慣でしたが、孤児たちは生涯肉親には会えないのが大半だったそうです。

慈善院は今ホテルになっていますがその隣に建てられた教会(と言っても実際はコンサートホールとして利用されています)で毎日のようにコンサートが繰り広げられ、ヴィヴァルディゆかりの楽譜などが展示されています。
ピエタで育った音楽家アンナ・マリーアはバイオリンが非常に上手くピエタで指導した記録が残っています。またピエタ出身ではないですが歌手のアンナ・ジローを高く評価していたヴィヴァルディが彼女の為に多くの歌曲を残したことも広く知られています。
ウィーンでのオペラ公演にジローを誘ったものの断られ、単身ウィーンに行ったヴィヴァルディ。でもそこで待っていたのはヴィヴァルディを招聘していたカール6世の急逝。ウィーンでは1年間喪に服す習慣がありコンサートは中止に。さらに跡を継いだ女帝マリア・テレジアに周囲の国の風当たりが強くウィーンの街は不穏な空気にさらされます。
3度目のウィーン訪問だったヴィヴァルディですが、新作のオペラ『メッセニアの神託』上演の準備ですでに多大な予算を費やしてウィーンまで来たものの、依頼主(パトロン)のカール6世が亡くなり借金だけが残ってしまう事態に。
翌年の1741年6月には自作の協奏曲の束を二束三文でボヘミアの伯爵に売ってしまったという話も残っています。
そしてその翌月ヴィヴァルディはウィーンで65歳の一生を終えモーツアルトと同じような共同墓地へと埋葬されました。

自筆の楽譜などが展示されています。
コンサート案内の看板も掲げられていました↓

オーストリアのピアニスト、ルドルフ・ブーフビンダーさんのコンサート案内。大阪のいずみホールでも聞いたことがありますが、2010年にウィーンフィルとバルト海クルーズの企画でベートーベンのピアノコンチェルト全5曲を共演するツァーがあり、私も洋上や陸に上がってサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で、感動の中聴き入ったピアニストです。

ガエターノ・ドニゼッティ作曲のオペラ『アンナ・ボレーナ』 開演時間は平日19:30~ 日曜15:30~
海にのんびりと浮かぶゴンドラを眺めながら「孤児たちに歌ったり楽器を奏でたりして音楽の情操教育を施したヴィヴァルディはその子どもたちに無限の可能性を見出していたことでしょう。300年経た今もなお色褪せない作品を令和の子どもたちがベネチアの空気を感じて演奏してくれることを願って、私たちもさらに精進したい」 と思える大切なひと時でした。