「ハイリゲンシュタットの遺書」

ドイツに短期留学していた長島匠さんから送られてきたハイリゲンシュタットの遺書の写真

1802年10月6日に手紙4枚分の遺書と、10日に追記のメッセージが残されています。

その追記の一部を先に記載します。

***「希望」よ。私は君とお別れすることになる。ある時期までは回復するかもしれないという希望を抱いていた。でも君と完全に決別だ。木々の葉が秋に色を変えて落ちてしまうように希望も枯れ果ててしまった。心の中に真の喜びがなくなってどんなに長い時が経つでしょう。***

いつか治る。と信じて様々な治療を試みたものの年々衰えていく聴力に悩み抜いた挙句に発した言葉が「希望」との訣別。

では本文も少し紹介したいと思います。

***君たちは私が頑固で人間嫌いだと思っているが私は子どもの頃から優しい感情を持っていた。でも、この6年間治る見込みのない病に侵されている。無能な医者のせいで状態は悪化するばかり。

私は情熱的で活発な性格で、社交界も好きだったが人々から距離を取り、孤独の下に生きていかざるを得なかった。時にそれを乗り越えて外に出たかったがそのたびに耳が聞こえないという悲しい事実を目の当たりに突き付けられた。私は人々に対して「もっと大きな声で話してください。私は耳が聞こえないのです」と言うことが出来なかった。

もし私が人を避けていてもどうか許してほしい。本当は私もみんなの仲間に加わりたかった。私は人々の輪に入って元気を回復させたり、相談し合ったり、心の内をあかしたりしたかった。

絶望の中私が自分の人生を終わらせるのもあと少しだった。が、芸術が私を引き留めてくれた。私は自分が使命を果たすまではこの世を去ることが出来ないと思うことが出来た。

忍耐。今や私に必要なのは忍耐だ。人々よ。いつかこの手紙を読むことがあるならば、君たちの扱いが不当であったかを考えて欲しい。そしてもし不幸な人がこれを読んだとしたらあなたと同じような境遇にあった人間が、自然がもたらしたあらゆる障がいにも関わらず尊敬に値する芸術家として人々に受け入れられるために全力を尽くしたということを慰めとして欲しい。

弟カールよ、子どもたちには美徳を教えるのだ。美徳だけが幸せにさせてくれる。決してお金ではない。これは私の経験から言っている。私をみじめな生活から救ってくれたのがまさにそれだからだ。私が自らの命を絶たなかったのは芸術と美徳のおかげなのだ。

もし、その日が自分の芸術的な能力をすべて発揮する前に来てしまったら、いくら私の運命が過酷だといっても、それは早すぎるだろう。なのでもう少し後に来ることを祈っている。でも仮に早く来るとしても私は満足だ。それは私を終わりのない苦しみから解放してくれるから。

ハイリゲンシュタットにて  1802年10月6日  ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーベン

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1770年12月に生まれたベートーベン32歳の時の遺書。忍耐を胸に希望と決別し、1827年3月に亡くなるまで25年間に多くの作品を残す。苦悩の中から悟りを開いたかのような2楽章そして終楽章では溢れんばかりの歓喜のフレーズが生み出されている交響曲第9番を最後に交響曲は作曲せず、亡くなるまでの3年間は専ら弦楽四重奏曲を書き続けたベートーベン。

今一度、ベートーベン作曲の弦楽四重奏曲に耳を傾けてみませんか。