「明治時代にアメリカで学んだ女性」

明治時代(1907年)にアメリカに留学し、帰国後は関西学院で音楽の指導に当たり山田耕筰も所属したグリークラブ設立で知られる岡島政さんの留学先に行って欲しいとの依頼で、単身ニューヨークからシラキュースに向かいました。

「シラキュース大学には音楽科がない」と聞かされていた親族の方が、政さんはどの課程で学んだのかを知りたいとのこと。

ニューヨークには当時コロンビア大学、ニューヨークユニバーシティ大学などがありましたが音楽を学べる科目はなかったので、シラキュース大学を新設するにあたり神学部を設けたそうです。また大学での宗教色が強くなることを懸念して音楽科を併せて申請。その結果音楽を学べるコースが誕生したということでしょうか。

❓なぜこのシラキュース大学を政さんが選んだか。

日本において長崎の活水女学校で学び、卒業後も母校で英語や音楽を教えていた彼女が、活水女学校のある場所が大浦天主堂に近いということも含め、何かのきっかけで神学部のあるシラキュース大学を知ったのではないかと思っています。

二日間にわたってシラキュース大学を訪問し、初日は大学の設立に関して聞き取り。翌日は過去資料が残っている図書館のスペシャルコレクション部に訪問。資料館らしき建物でアーカイブの閲覧申請を。受付で「1910? masa okajima」と申込書に記入し2個以上の身分証明書を提示。しばらくすると1907~1911の分厚い本を2冊借りることが出来ました。

2冊共に政さんの名前を見つけることが出来、「Masa Okajima Kobe Japan 1907」「masa okajima T.m  501 Comstedo avw,」と記されています。「Tはティーチャー。mはミュージックよ。この住所はこの窓から見える通りの名前よ」と窓の東側を指してとても親切に教えてもらいました。「教育学部音楽科」でしょうか。

ところで卒業者名簿には政さんの名前が載っていません。「ここに在籍しても多くの方が卒業していないのです」との図書館員さんの言葉。資料を調べてカメラに収め席を立った時、後方で調べ物をされていた黒人女性が声をかけてくださり「私も昔の資料を調べているの。私の祖母もここに在籍したけれど卒業していないの。当時女性はペーパーワークが出来なかったという説もあるけれど、『女性は卒業しないという風習』(この言葉は微妙で私の語学力ではとっさに判断できなかった部分でもあります)もあったとされているの」とのこと。少し重い言葉にも思えました。

学ぶことが自由な現代。当たり前を当たり前と思わず学べる環境に感謝して日々過ごせたら、技術を磨く以上の何かが発見できるような気がします。

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