(れ‐7) 連絡船
皆さんは “連絡船” と聞いて何を思い浮かべますか?。「涙の連絡船」や「津軽海峡冬景色」のような “演歌” のメロディーでしょうか?。それとも、青森港と北海道の函館港を結んだ「青函連絡船」や 岡山県の宇野港と四国の高松港を結んだ「宇高連絡船」でしょうか?。どちらも “鉄道連絡船” として、乗客の他に貨車も積み込むことができました。船倉にレールが敷いてあって、港の桟橋のレールの上を機関車に押されてきた貨車が次々と船倉に入れられ、着いた港では逆に引っ張り出されてそのまま各地へ出発して行ったのです。港で貨物の「積み替え」をしなくてもよいので、大変便利なものでした。しかし「青函トンネル」や「瀬戸大橋」ができて、貨物列車そのものが海を渡ることができるようになったので、どちらの連絡船も廃止されてしまいました。宇高連絡船のデッキで瀬戸内の島々を眺めながら食べた立ち食いうどんはとても美味しかったけれど、もう食べることはできません・・・。
さて、私の “連絡船” の記憶ですが、それは播淡聯絡汽船と淡路連絡汽船という二つの会社が共同運行して、兵庫県の明石と淡路島の岩屋とを海上約30分で結んでいた連絡船です。オレンジ丸やライラック丸、からたち丸やさざんか丸など 船名に花の名前が付くその船を、地元の人は愛着を込めて “ばんたん” と呼んでいました。。その ばんたん が何と連絡していたのかというと、島内を走る「淡路交通」という路線バス と 本州を走る「国鉄(現JR)」でした。特にバスとの連絡は、岩屋に バス・船が到着した5分後に 船・バスが出発し、どちらかが遅延した時は到着するまで出発を見合わせるという、徹底した “連絡運行” を行なっていました。また国鉄との連絡としては、島内各所のバス乗り場で国鉄の明石駅から各駅までの乗継ぎキップが買える というものでした。
こんな思い出があります。大学二回生の夏、同じ学生アパートに下宿する友人が私のいる実家に遊びに来ました。海水浴やハイキングをした翌日、二人で京都の山科に帰る時のことでした。実家最寄りの「仮屋」というバス乗り場の窓口でお金を出して「山科2枚」と言うと、その友人が「何をふざけてるんや!」と笑い出しました。しかし、窓口氏から「仮屋→国鉄山科(明石経由)」と印刷された硬いキップが渡された時、友人が口をあんぐりと開けていたことが忘れられません。もちろん、そのキップ一枚で京都の下宿まで帰れたことは言うまでもありません。
しかしこの “連絡船” も「明石海峡大橋」ができてバス自体が海を渡れるようになったために廃止されてしまいました。橋やトンネルが開通したことはとてもありがたいことですが、その陰で懐かしい乗り物がなくなっていったことも記憶にとどめておきたいと思います。